日々の瀬戸内国際芸術祭の様子や瀬戸内のいいひと、いいこと、いいものをお伝えしていきます。

こえびカフェ

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2009.06.19

なぜボランティアはアートに向かうのか?

この問いに、大阪大学総長鷲田清一氏が、5月23サンポートで開催されたシンポジウムの基調講演「アートの力、地域のつながり」で、2003年、大阪ミナミで行われた「湊町アンダーグラウンドプロジェクト」という<光>のパフォーマンスのことを紹介しながら話されていた。

6月4日に毎日新聞に掲載された鷲田氏のコラムでわかりやすく紹介されていたので引用します。
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「鷲田清一の都市の微熱」
先日、香川県で現代美術をめぐるフォーラムに参加したとき、ひとりのパネリストの口から思いがけない言葉が発せられた。「生活にアートを取り戻す」のではなく、「アートを生活に取り戻す」ことが必要だと言ったのである。

私には、前々から不思議に思っていることがあった。現代のアーティストのなかに、とりたててアートに関心があるわけではないボランティアを数多く巻き込みながら、地域社会の活動にかかわる一群のひとたちがいる。

かれらは、教育の現場、障害者支援、地域社会の活性化などに、アートを介してさまざまにコミットしようとしている。その理由がうまくとらえられないでいた。

思い起こせば、2003年のこと。大阪ミナミで、「湊町アンダーグラウンドプロジェクト」という<光>のパフォーマンスが敢行された。湊町の地下にショッピングモールを造る計画が、バブルがはじけて頓挫し、開発途中の地下空間が「なかったもの」として封印された。

いったん封印されたその空間を、さまざまの抵抗を押しのけて、アートの現場として再生させようという運動が起こり、一年半の準備ののち、そのプロジェクトは実現した。

消費のための明かりが煌々と照るのではないとしたら、この闇のなかに最初に生まれるべき光とは何か?そういう問いかけに、延べ数千のボランティアが集ってきた。

〜中略〜

全員が手弁当。なかには一ヶ月休職するひともいた。「なんかワクワクするもの」、このコンセプトだけでうごめきだした大きなうねりを、言い出しっぺの一人であったわたしは、はたから唖然と見守るばかりであった。

その打ち上げの会で耳にした二つの言葉が、いまも脳裏に刻まれている。
一つは、廃屋にあった蛍光灯3000本を集めて光の絨毯を織りなしたアーティストの言葉。かれは「自分はここでは作家ではなく、一人のスタッフでした」と、誇らしげに言った。

いま一つは、ボランティアとして参加した10代の女性の言葉。「正しいと思うことって一人一人違うんですね」。ふつう考えればあたりまえのことを、彼女は果てしないこの作業のなかで「発見」したのだった。

ホワイトキューブの壁や床に展示された「作品」を遠慮ぎみに「鑑賞」するだけのアートの現場にあきたらなくなったアーティストと、訳もわからないまま塞いだ日常を送っていた10代、20代のひとたちとが、何を作るのかもさだかでないまま、「なんかワクワクするもの」という合言葉だけで、延々と「恊働」する。

それぞれがそれぞれにイメージを膨らませ、それらの異なるイメージをたがいに調整しながら、最後はこれ以外にないという一つのところへもってゆく...。そうした活動がここにはあった。

アートはあらかじめ正確な青写真があって、それに沿って作品を作るというやり方をしない。これは、あらかじめ未来に明確な目標を設定したうえでそのために何かをするという、いまの社会であたりまえの進め方とは違う活動の仕方である。

いいかえれば、なにかある同一の理念や価値、もしくはイメージを共有するというかたちでひとびとが結集するというのとは異なる「集い」の可能性をはらんでいる。

同一の理念のもとに集まるのではなく、またその理念のため現在の活動を犠牲にするのでもなく、たがいに差異を深く内蔵したまま、ゆるやかではあるがたしかな紐帯をかたちづくること、そういう未知の社会性の芽ばえにかれらは賭けていたのではないかと、いまになっておもう。

アートを変えるのではなく、(社会)生活そのものを変えること、そのことを先のパネリストは「アートに生活を取り戻す」というふうに表現したのではなかったか、と。

哲学者 鷲田清一

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基調講演では、鷲田さんはゆっくりと、しっかりとした口調で、実際に体験し、感じて、考えたことを話してくださいました。

そして、なぜアートなのか?について、「三つ半でまとめてみた」と話され、残りの半分について語られたことが更に面白いものでした。

アーティストは"独特の知覚"を持っている。これに感染されるのは気持ち良く。心地よい。
また、獰猛なまでの集中力で"とことん"やってしまう。この"とことん"に感染するとゆるゆるのこどもたちが"とことん"をやってしまうようになる。

映画をつくろうと集まった人たち。情報を書き込んだ何百枚の紙を手に持って振りかざす場面。手に持った数百枚の紙の内容は決して画面にうつることは無い。その紙に、一枚一枚違う内容の情報がびっしりと書き込んであった。準備したのは、ゆるゆるであったこどもたちであった。と。

2010年、瀬戸内国際芸術祭をきっかけに、いろんなことが変わりはじめるに違いありません。

Posted by 明かり

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コメント

「臨床哲学」の鷲田さんの言葉には、しばしば目を見張るものがある。

「なにかある同一の理念や価値、もしくはイメージを共有するというかたちでひとびとが結集するというのとは異なる「集い」の可能性をはらんでいる。」

なるほど、無理に何かを共有しなくとも、集える可能性がある。「成功」をなし得なくても、一人ひとりがただ「ワクワク」できればいいのだ。
同一の理念を共有し、邁進していくことが既存社会の常識とされている今だからこそ、そういった「集い」の可能性を信じたい。
そんな「価値」をこの瀬戸内の島々から広げていければ、と思う。

Posted by.hiroさん [URL(2011.10.04)

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